25年生きてきて感じることがある。まだまだ、短い人生でこれからも学びや修正点が出てくるのは明白だが、 一度、考えていることを文字に起こしてみたいと思う。
私の考える人の世の原則とその例外
原則:人間は皆、不平等で平等だ。
例外:「不平等で平等」の言葉で片付けられない環境にいる人のために政治がある。経済活動がある。
私は、この二つの言葉を大学4年の時に考えた。
平等、不平等に関する話題の中心にあるのは、貧富の差だと思う。しかし、資本主義による貧富の差がなくなった、経済的理想郷の共産主義社会であったとしても、不平等はある。身体的、精神的な面を含めて考え方は人それぞれだ。
原則と例外というのは、私が大学時代に聞いた言葉です。
「原則あるところに、例外あり」
法学を専攻していたこともあり、刑事訴訟法の授業で先生が仰られており強く印象に残りました。
刑事手続上必要な事項として、基本(原則)がある一方で、運用上の例外措置を設けることで、現実的に使えるよう厳格な法に柔軟性を与えているということを学びました。
原則:資本主義に注目してみてみると、生きる私たち、人間は平等に不平等だ、不平等で平等だ
これは資本主義に限らず、理想郷のような共産主義社会が実現したとしても残る原則だろう。
例えば、金銭的に貧しいものの理不尽さはもちろん不平等で辛い
しかし、中間層の没個性の中でもがく人生もしんどい
富裕層の周囲からのプレッシャーに耐え自分がその属性に足る人物になろうとしたり、あり続けることも辛い
同じ状況だったとしてもその捉え方も違う。つまり、実際に起きている事象(事実)と捉え方(解釈)にも違いがあるということだ。
また、誰のせいでもない持病を抱えるのも辛い
能力のなさや、自分の能力、適正がわからないために努力(自分が望む何かを掴み取ろうとする力)をしたくても努力の方向性が人、やりたいことがない人も辛い
どんな属性でも、その属性と関係なく(本人は関係あると思っていても)幸せな人は幸せで、不幸な人は不幸だ
自分の思いや行動次第で、先の例、貧富の差で区分される属性は乗り越えることができる。
乗り越えることができなければ、それを可能にする社会をしないといけない。
そう、原則があるとは言っても、原則を超える理不尽さがある時、例外がある。絶望的な貧困や差別、障害などだ。
この不平等で平等な社会でさえ、あまりにも周囲との不平等を感じ、それを「不平等で平等だ」と片付けるにはあまりにも失礼な状況の人のためにも、政治経済による活動がある。
非営利組織による活動も彼らを支える現場機能を有していると考えるが、規模、内容、継続性の観点から高い価値はあるが不十分だろう。
やはり、政治経済活動のような、半分は崇高な目的のためだが、もう半分はそれを支える金銭的なインセンティブのため(こちらの比率が高い人、この目的しかない人も含めて)、存在している活動の方が普遍性や影響力が強いと考える。
#追記
「不平等で平等」と、この文章を書いた後に検索すると、すでに漫画「ハイキュー」で似たような言葉が出ていたみたいです、、「自分の考えは唯一だ!」と思っているわけではありませんが、自分の考えや、文章に愛着や高尚さを感じてしまうことがあるのですが、一般的にもありうることは忘れてはいけませんね、、
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